本作には、喪失、自傷行為、未成年者への加害未遂に触れる場面があります。つらく感じる場合は、無理をせず読むのを中断してください。
名前のない星
人の多い場所ほど、ひとりでいることがよく見える。
渋谷駅のハチ公口で息を吐くと、白い雲が一秒だけ生まれ、すぐに人波へ溶けた。私は両手を擦りながら、その小さな消失を三度見送った。待ち合わせの時刻を五分過ぎても、須藤零太は来なかった。けれど、彼が遅刻しているわけではないことを、私は知っていた。
少し離れた場所で、零太はカメラを構えていた。スクランブル交差点へ流れ込む人、巨大な画面の光、信号が変わる直前に駆け出す会社員。彼は世界のすべてが消える前の証拠みたいに、一枚ずつ写真へ閉じ込めていた。
「零太くん、おかえり」
撮影を終えて戻ってきた彼にそう言うと、零太は当然のように「ただいま」と返した。私たちは家族でも恋人でもない。だから、こういう言葉だけは自由に選べた。
自動販売機のココアは売り切れていて、仕方なくブラックコーヒーを選んだ。一口で顔をしかめた私を、零太が子どもだと笑う。高校生だから子どもで正解だと返すと、彼は私の缶を奪って残りを飲み干した。
「それ、間接キスだからね」
「信号が変わる。走れ」
彼は私の手をつかんだ。人で埋まった交差点の真ん中で、その手だけが進む方向を知っていた。周囲の視線が一斉に刺さってくる気がして足が止まりそうになると、零太は今度は私の手首を強く引いた。誰も私を見ていない。分かっているのに、誰もが私を見ている。渋谷では、二つの正反対がいつも同時に本当だった。
私たちは名前から、学校で『ゼロと白』と呼ばれていた。須藤零太のゼロ。飯塚真白の白。陰口のつもりで付けられた名前を、当人たちだけが気に入っていた。ゼロも白も、何もないように見えて、これから何にでもなれる。そう考えると少しだけ救われた。
交差点を渡りきったところで、私は言った。
「星が見たい」
零太は理由を聞かなかった。三十分ほど電車に乗れば見える場所がある、とだけ答えた。理由を聞かないことは、彼の優しさであり、ずるさでもあった。私はその両方が好きだった。
泣く機会
悲しみは、起きた出来事より少し遅れてやって来る。
母が亡くなったのは、昨年の終わりだった。四十歳。心筋梗塞。簡潔すぎる三つの言葉で、人間の一生が片づけられた。
その朝、学校へ行く前に声をかけても返事がなかった。締切前にはよくあることだったから、私はそのまま家を出た。授業中に担任から呼ばれ、家の近くの踏切で倒れていたと聞かされた。病院で握った母の手は、私が知っているどの冬より冷たかった。
それでも涙は出なかった。母は三か月近く書斎にこもり、私たちはほとんど顔を合わせていなかった。別れの言葉を言えなかったのではない。別れる前から、私たちは言葉を失っていた。
葬儀で泣いていたのは、ずっと前に家族を辞めた父だった。父は別の女性と別の家庭をつくり、私の人生からきれいに退場したはずだった。そんな人が母の棺の前で泣いている。私は悲しいより先に、順番が違うと思った。
小学生のころ、母は小説家になるために家事をやめた。父と私が炊事と洗濯を引き受けた。やがて父はそれにも、母にも、私にも耐えられなくなった。ある日、食卓に離婚届が置かれていた。母は目を通さず、私に父へ届けるよう言った。
待ち合わせ場所で父は煙草を吸いながら書類を受け取った。ごめんとも、元気でとも言わなかった。私は泣きも怒りもせず、その煙が消えるところを見ていた。あの日から私は、感情には使用期限があるのだと思っている。言えないまま時間が過ぎれば、いずれ何も感じなくなる。
けれど、それは間違いだった。感じなくなるのではない。行き場をなくした感情は、身体の見えないところへ積もっていく。雪のように静かで、雪よりずっと重く。
閉じた書斎
鍵が守るのは秘密ではなく、秘密を持つ人の孤独かもしれない。
母の書斎には、いつも鍵がかかっていた。そこだけが家の中にある外国みたいで、私は入国を許されていなかった。
ある日、洗濯物を取り込んだ帰りにドアへ触れると、抵抗なく開いた。数年ぶりに見た部屋は、母の神経質さをそのまま四角く切り取ったように整っていた。机と椅子とパソコン。紙の本はほとんどない。窓のそばには飲みかけのグラスが一つあった。
背後に母の気配がした。振り返った私は、叱られるより先に「出ていくから」と言った。母は何も言わず、私の目の前でドアを閉めた。重い音だった。拒絶は言葉より正確に伝わる。
それから私は書斎へ近づかなかった。学校帰りに家を見上げると、窓辺でグラスを持ち、空を眺める母の姿が見えることがあった。私は友達や先生に、母とは仲がいいと嘘をついた。ベストセラー作家の娘という肩書きは、私の孤独をきれいな包装紙で包んだ。
母が亡くなる前日、私はもう一度だけ書斎へ入った。母は背中を丸めて原稿を書いていた。部屋の端で膝を抱え、私はただキーボードの音を聞いた。話しかける勇気も、立ち去る理由もなかった。カタカタという音は不思議に心地よく、いつの間にか私は眠っていた。
あれが最後だった。今思えば、一文字ごとに母の残り時間が刻まれていたのかもしれない。母は私に言葉をくれなかったのではなく、言葉にする相手を間違え続けていた。読者には何万字も渡せるのに、娘には一言も渡せない人だった。
遺品整理で、古いノートを見つけた。蛇のように曲がった母の字で、日付と短い文章が書かれていた。一日につき百四十字ほど。母の私生活は、誰にも送られなかった投稿の集まりだった。
《真白がカレーを作った。少し焦げていた。おいしいと言えなかった》
《廊下で足音が止まった。ノックを待った。来なかった》
私はそこで初めて、閉じたドアの反対側にも、同じだけ臆病な人がいたことを知った。
本当のことを話さない関係
嘘は距離をつくる。ときどき、その距離だけが二人を守る。
夜の渋谷駅。山手線ホームのベンチは冬の風を吸い込み、金属の塊になっていた。私は文庫本を読むふりをし、隣でスマートフォンを触る零太を見た。
画面の中の彼は、短い文章で人を励まし、たくさんの知らない人から好かれていた。現実の彼は、他人へ向ける言葉を慎重に選びすぎて、黙っていることのほうが多い。私には、その矛盾がよく分かった。私たちは二人とも、見てほしいくせに、見つけられるのが怖かった。
「真白ちゃんといると楽だね」
「お互い、本当のことを話さないからね」
私たちは笑った。それは冗談の形をした契約だった。知らなければ傷つかない。名前のない関係なら、失ったときも名前のついた悲しみにならない。高校生のくせに、私たちはそんなことばかり上手になった。
けれど、夜の底でひとりになると、契約は役に立たなかった。母の死も父の不在も、朝まで消えない。私は自分の身体に新しい傷をつくり、あとからそのことを責めた。どうして繰り返すのかと自分に問い、答えが出ないまま、画面に『死にたい』と書いた。
投稿して数分後、零太から返信が届いた。きれいな励ましではなかった。《見た。明日、話そう》。その短さがありがたかった。
翌日の放課後、誰もいない教室で、私は彼に打ち明けた。零太はしばらく黙り、それから「僕も同じだ」と言った。胸の奥に張りついていた孤独が、急に剥がれ落ちた気がした。呼吸が乱れる私の背中を、彼は何も言わずにさすった。
後になって、その告白が嘘だったと知った。彼は自分を傷つけたことなど一度もなかった。私に近づくためだけに、私と同じ傷を持つふりをした。
ひどい嘘だと思う。今でもそう思う。けれど、私の孤独を理解できないまま、それでも隣に立とうとした人を、私は完全には嫌いになれなかった。正しい言葉より、間違ったまま差し出された手に救われる夜もある。
六月の救出
出会いは運命ではない。あとから運命だったことにするのだ。
零太と初めて話したのは、高校一年の六月だった。あのころの私は、休日になると、インターネットで知り合った大人と会っていた。食事をして、ゲームセンターへ行き、つまらない歌を聞く。その対価としてお金を受け取った。寂しさを時間に換え、時間を現金に換えるだけの、簡単な仕事だと思っていた。
同じ人とは二度会わない。帰ったら連絡先を消す。自分で決めた規則が、自分を守っていると信じていた。
その日、席を外した間に飲み物へ薬を入れられた。急に身体から力が抜け、視界が傾いた。男は親切そうな顔で私の肩を抱き、渋谷の裏路地へ連れていった。声を出そうとしても、舌が自分のものではなかった。
そこへ零太が現れた。同じ学校の制服なのに、名前も知らない、影の薄い転校生だった。彼は男を挑発するように笑い、私の同級生だと告げた。相手は面倒を察して逃げた。零太は追わず、私の前へしゃがみ込んだ。
「救急車を呼ぶ。家の人にも連絡する」
「家の人はいない」
その言葉を聞いたときだけ、彼の表情から笑いが消えた。
零太は以前から私を見ていたらしい。授業中も放課後も、窓の外ばかり眺めている私を、いつか笑わせたいと思っていたという。尾行だね、と言うと、彼は初めて高校生らしく照れた。
助けられたから好きになったわけではない。そんな単純な物語にしたくはなかった。彼はおせっかいで、失礼で、自分をよく見せるために嘘もつく。それでも、私を弱いだけの人間として扱わなかった。助けられた私に、かわいそうという名前をつけなかった。
その後、放課後のカフェで話すようになった。母が彼の愛読する小説家だと分かると、零太は子どものように目を輝かせた。
「真白ちゃんにとって、お母さんの小説はどんな存在?」
「大嫌いな現実から、目を逸らさせてくれる存在」
矛盾しているね、と彼は言わなかった。代わりに、仕事場を見てみたいと言った。だから私は、母がいなくなった書斎へ彼を招いた。
窓辺の告白
好きという言葉は、答えではなく、質問の終わりだった。
母の書斎へ零太を入れると、彼は想像よりずっと簡素だと言った。机、椅子、パソコン。紙の資料はほとんどない。作家の部屋というより、誰かが急に消えたあとの空室に見えた。
私は窓辺に腰を下ろし、母がいつもここで空を見ていたことを話した。階段を上ってはノックできずに戻ったこと。仲間外れにされた気がして、自分の部屋で泣いたこと。零太は途中で慰めず、最後まで聞いた。
「私、零太くんのこと、信頼しているのかも」
言ってから、信頼という言葉が部屋の空気を変えた。恋人より曖昧で、友達より重い。零太はすぐに喜ばなかった。信頼を得るには時間が必要だと言った。その慎重さが、かえって信じられた。
私は父を信じていない。母も信じきれなかった。他の男の人も怖い。それでも零太は別だと伝えた。彼は、私は以前より明るく、強くなったと言った。
「でも、まだ全部やめられたわけじゃない」
「僕だって、沈んだり浮かんだりする。泣いたり、馬鹿みたいに笑ったりする。それでいいじゃん。生きているんだから」
正しすぎる言葉なら腹が立ったと思う。けれど零太は、自分も不完全な側に立って言った。私は彼の背中へ抱きついた。柔軟剤の匂いがした。たぶん両親に愛されて育った人の、普通の家の匂いだった。少し羨ましくて、少し安心した。
私は母が嫌いだったと話した。私より小説を選んだ母も、その母が書いた小説も嫌いだった。けれど読み始めると止められなかった。母の文章の中に、現実では一度も見せてくれなかった優しさがあったからだ。
「僕は、真白ちゃんのお母さんが書く小説が好きだし、真白ちゃんも好きだよ」
告白には聞こえない言い方だった。私も同じ温度で「好き」と返した。私たちは関係に名前をつけなかった。名前をつけた瞬間、いつか終わるものになってしまいそうだった。
帰り際、零太は「今夜は月がきれいだ」と言った。私は、うん、とだけ答えた。窓から彼の背中が小さくなるのを見ながら、口元まで来ていた言葉を飲み込んだ。母と同じことをしている、と気づいたのは、彼の姿が見えなくなってからだった。
最後のコラム
白紙は何も書かれていないのではない。まだ終わっていない。
数日後、零太に渋谷へ呼び出された。彼は鞄から一冊の文芸誌を取り出した。母が書いた最後のコラムが載っているという。
題は『白紙について』。母は、小説を書き始める前の画面が怖いと書いていた。何もない白は、失敗していない代わりに、成功もしていない。可能性という言葉は美しいけれど、選ばなかった未来の墓場でもある、と。
最後の段落だけ、娘の話だった。
《私には、うまく話せない相手がいる。近くにいるほど言葉を選びすぎて、結局何も言えなくなる。書くことを仕事にした人間が、いちばん書くべき一行を書けない。いつかこの白紙へ、ただいまと書きたい》
誌面に落ちた水滴で文字がにじんだ。雨は降っていなかった。私はようやく、自分が泣いていると分かった。母が亡くなった日にも、葬儀の日にも出なかった涙だった。悲しみは遅れてやって来た。渋谷の真ん中で、待ち合わせに遅刻した人みたいに、悪びれもせず。
零太は何も言わなかった。私の隣に立ち、スクランブル交差点の信号が何度変わっても動かなかった。慰める代わりに、一枚だけ写真を撮った。泣いている顔を撮るなんて最低だと言うと、「今の真白ちゃんは、ちゃんとここにいるから」と答えた。
春になれば、私は東京を離れる。就職先も住む場所も決まっていた。私たちはそのことを知りながら、未来の約束をしなかった。ずっと一緒にいると言えば嘘になる。忘れないと言うのも、たぶん嘘になる。だから別れの日、ハチ公口で私は「行ってきます」と言った。
零太は少し考えてから、「いってらっしゃい」と答えた。おかえりも、ただいまも、その先に残して。
電車の窓から渋谷の光が遠ざかる。膝の上には母の文芸誌と、零太がくれた写真があった。人波の中で、泣きながらカメラを睨む私。その顔はきれいではなかったけれど、生きている人の顔だった。
私はスマートフォンを開き、白い画面に最初の一行を打った。
《これは、ゼロと白から始まる物語だ》
送信はしなかった。誰かに見せる前の言葉を持つのは、初めてだった。画面の白はもう空っぽではない。ゼロは終わりではなく、ここから数え始めるための数字だった。
